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- 野中新田(近世)とは
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野中新田(近世) 享保期の新田村名多摩郡山口領のうち幕府領享保期に上谷保【かみやぼ】村(国立市)の農民矢沢藤八によって計画され,上総国万国村(千葉県)の野中屋善左衛門の出資を得て開発された新田矢沢藤八は享保7年,黄檗宗円成院住職大堅と図り,上谷保村の有力農民6名と江戸の商人牛込榎【うしごめえのき】町(新宿区)の米屋喜右衛門・佐野屋長右衛門・玄瑞源右衛門・関口大屋六左衛門の4名を出資仲間として幕府代官所に新田開発願を出したが,冥加金250両の上納かなわず,翌8年隣地鈴木新田の開発に出資していた野中屋善左衛門に,新田名を野中新田とすることを条件に出資を依頼冥加金を上納して享保9年幕府から513町歩の開発許可が下り,土地は開発仲間11人と円成院の計に等分された当初上谷保村願地と称されたが,享保11年,野中新田として独立初代名主には源右衛門が就任円成院も寺社奉行から引寺を許可され,享保12年春,上谷保村から野中新田に移建その後,野中新田は大村であったため,享保17年3組に分割各々独立し,各組の名主には与右衛門・善左衛門・六左衛門が就任,組の名もその名主名をとり,与右衛門組・善左衛門組・六左衛門組となる3組合計の村高は「天保郷帳」「旧高旧領」ともに1,142石余このうち六左衛門組は現在の国分寺市域となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」